ぼんやり考察してみよう

日々考えたこと、映画感想、評価などを記しておくブログです。WPから移転しました。

「まほろまてぃっく」から考える、男女の性差について

■1.ある一つの疑問  ~何故えっちなのはいけないのか?~

 
皆様は「まほろまてぃっく」というアニメをご存知だろうか。
タイトルにまでしておいて何だが、実は、筆者はよく知らない。作品の詳細については知らないが、名前だけは知っている程度である。
筆者が「まほろまてぃっく」を知ったのは、あるAA(アスキーアート)がきっかけであった。
 

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……このAAを最初に見た時、筆者は思春期真っ盛りの中学生。
ぼんやりとAAを眺めていた筆者だったが、ふと、ある一つの疑問が頭をもたげた。
 
『何故だ?』
 
『何故、えっちなのはいけないのだろう?』
 
筆者は思った。
生物というものは、究極的には、子孫を残すために生きているはず。
おこがましくも霊長を名乗ってはいるが、勿論、ヒトも例外ではない。
それならば、男子も女子も、ある程度は、性というものに対して積極的であるべきではないだろうか?
 
男子が性に対して積極的なのは、火を見るよりも明らかであり、周知の事実である。
しかしながら、筆者の見る限りでは、女子は性に対して、積極的どころか消極的で、嫌悪感を剥き出しにしているようにすら思えた。
男子も女子も等しく、性に積極的であるのが自然の摂理ではないのか?
女子はどうして性に対して拒否反応を起こす傾向があるのだろう?
子孫繁栄という観点から見れば、性に拒否反応を起こすなどあってはならないことではないのか?
 
若かった筆者は、それ以上先に進むことなく考えるのを止めた。
疑問は疑問のまま、結論は出なかったのだが、今になって疑問が解決したばかりか、考えを進めれば進めるほど興味深かったので、ここに記す。
 
 

■2.男の役割、女の役割  ~すべては子孫繁栄のために~


――女子はどうして性に対して拒否反応を起こす傾向があるのだろう?
中学生の筆者はわからなかったが、大人になった今考えたら、簡単に答えは出た。
キーワードは『子孫繁栄』である。
男子が性に積極的なのも、女子が性に消極的なのも、すべては子孫繁栄のためだったのである。
 
先ず、男子の場合だが、これはわかりやすい。
男子は子孫繁栄のため、より多く自分の遺伝子を残すのが役割である。
故に、性に対して奔放で、積極的である。
 
次に、女子の場合。こちらは少々わかりにくい。
若き日の筆者が疑問を覚えたのは、子孫繁栄=性交、という安直な思考に囚われてしまい、男女それぞれの持つ役割、というものに目線を向けなかったせいである。
女子は子孫繁栄のため、子供を産み、育てることが役割である。
故に、性に対して臆病で、消極的であるし、そうならざるを得ない。
 
子供を産む前段階として、女子は当然妊娠する。十月十日とも言われるその期間、母体は極力安静を必要とし、満足に動けなくなる。
つまり、その期間、食事を与え、外敵から守ってくれる何者かが必要になってくる。
ここから、女子の行動様式が決定する。
心が通じあい、愛を確かめ合った相手――つまり、無防備な自分と胎児を守ってくれるであろう男 でなければ性交したくない。愛のない性交なんて苦痛なだけの拷問でしかない。
無理矢理、なんて論外である。母体の人格すら無視して乱暴狼藉を働く男など、性交の時点で、胎児を、子供を守らないと宣言しているも同じではないか。
 
女子は完全な自由意志で愛を求めているわけではない。胎児を守らんとする本能によって、恐ろしいほど合理的に『そう感じるようにつくられている』のである。
 
愛のある性交は最高だ。
愛のない性交は最低だ。
女子は子孫繁栄を至上命題とする本能の都合により、同じ性交という行為に対して、矛盾にも近しい両極端な価値観を押し付けられる形になった。
ここまで読み進められた賢明な読者の皆様ならばお気付きであろうが、これが女子の性に対する拒否反応の正体である。
女子から見て、露骨な性描写を含むポルノは愛のない性交に相当するため、本能が嫌悪感をかきたて、拒否反応を起こす、そういう仕組みになっている。
 
なので、女子は言うのである「えっちなのはいけないと思います」と。
 
性に対して積極的なのも本能なら、性に対して消極的なのもまた本能。なかなか興味深く、面白いことである。
 
  

■3.愛を定義し、その有無を判断せよ  ~無理難題を押し付けられた女子~

 
前項で、女子は愛の有無により、同じ性交でも、その価値が極端に変化すると記した。
システムに例えるならば、性交という変数を参照した際、愛という変数が一定以上ならプラスの値を、愛という変数が一定以下ならマイナスの値を代入する、と言ったところか。
ただ、人間はコンピュータではないので、そういったシステマティックな判断ができるわけもない。愛は概念――それも非常に抽象的な――であり、数値化することも、手に取って確認することも不可能である。
 
『愛とは一体何なのか?』
 
女子は自覚的か無自覚であるかに関わらず、否応なく、この、ともすれば哲学的ですらある問いに自分なりの答えを出す必要に迫られる。
しかしながら、愛の有無を判断せよ、なんて、正直無茶振りも甚だしく、結局のところ、女子は『感覚』に頼るしかない。
『愛』とか『心』とか、そういった、いくら考えてもわからない、目に見えない事象を取り扱うために、理論を放棄し感覚を鋭敏にする必要があった。
研ぎ澄まされた感覚は、時に思いもよらぬ洞察、発見をもたらすこともあり、それは俗に『女の勘』などと呼ばれる。
 
女子は理論でなく感覚で動くとはよく言われるが、それもまた本能の要請なのである。
『目の前の彼は、果たして私のことを愛しているだろうか? 彼と共に、幸せな家庭を築けるだろうか?』
いかなる理論をもってしても、その問いに答えを与えることはできない。